昭和四十三年二月二十七日 夜の御理解


  神様に喜んで頂く信心というのは、どういう信心だろうかと、まあ、そこんところが、思われる。そこん所が、願われる信心に、なってきた時が、本当の信心への方向が、方向ずけが、できた時と思います。ね。神様に喜んで頂く信心とは、どいうい信心だろう。神様に喜んで頂く信心とは、どういう信心をさせて頂いたら、神様が、喜んで頂くだくだろう。
  今朝の御理解に、信心、真心、神心、という事を、もう一つしんじんを頂きました。ね。四つ、真心、信ずる心、それから神心、そして神人、神と人と書いて、その神人とね。これは、教祖の神様が、おっしゃった言葉だそうでございますが、神と人と書いて、神人、こういう信心が、金光教の信心だと、こうおっしゃる。それはどういう事かというと、いわゆる、神も喜び、氏子も喜び、親の事は、子が願い、子の事は、親が願い、あいよ、かけよで、たちゆく道。そういう道を、金光教の信心、これは一番初めに申します、信心、信ずる神様を信ずる心が、生まれるから、信心が、手厚つうできる様に、なってくるわけですけれども、神様を、信ずる力という、その、なるほど、一生懸命修行させてもらい、おかげを頂き、神様を身近かに感じさせてもらえる、神様の働きって、素晴らしいっていうようなものを、体験させてもらうところから、心が、生まれてくるでしょうけれども、私は、本当に、神様に喜んで頂く信心とは、そいいう様な、信心そこがです、ね。神様を、信じなければおらない働きをですね、その上に、入れてくださるんだ、という事を、思います。皆さん、その事が願い続けられる。思い続けられる信心に、ならにゃあいかん。こうして毎日お参りしょるが、果たして、神様が喜んで頂く様な、信心じゃろうか。毎日、毎日参って来るけれども、ただ、愚痴、不足をならべに行く様な事、「あれ下さい。これ下さい。」というばっかり。
 今日、甘木の教会で築水第五回の信徒会が、ございました。ここからも三十名余りの者が、おかげを、頂いとったですけれども。秋永先生が、最後の幹部の会の、皆なで残って帰って参りましてから、話しておられました。先程、帰ったんですけれども、ひろたさんの話しを【  】この頃、ここで、司会をされましたですね。甘木の信者さんで、壮年部長かなんか、しとられる方でしょう。お薬師さん方の敬謙な信者さんだった様な方が、夫婦で、みえとった。
 そこで、その、ちょっとおみきが、でだんだそうですが、そこで、奥さんも、みえておった。それで「まやまさん、この頃あんた、信心、おかげなかの。」というてから、まあ、ひろたさんが聞かれたところがです。「はい、もう時々はやりよります。」とこういう。何をやるかというと、「時々、夫婦げんかを、やりよります。」とこう言う訳なんです。どういう事が、夫婦げんかの元になるんだと。それが「私は、うちの主人に申します。あなたが、ひろたさん所で、おかげを頂きんなさるなら、私は、あなたの言う通りにするけれども、おかげは、いっこう頂けんのに、あなたが、やかましばっかり言うてから、と言うて、それが、いつも喧嘩の元でございます。」とこう言われる。
 だから、ひろたさんが、ですね。もう、それこそ小さい妹か弟に教える様にして、言われたそうです、ね。「あんた所、主人が今いくつの?五十にもならんというてから、もうけどすなんて、思うたら、大間違いばい。いまこそ、しっかり、神様に喜んで頂く信心ば、しとかんならんよ。」て「五十からで、遅そうなんか。五十まえに、もうけなさっておかげを頂こうなんて、もってのか。」と言うて、もう、それこそ妹か弟に教える様にして、懇切に教えておられるのを、ほかの婦人の方で、聞いてです、「ひろたさん、有り難うございました。」と言うて、皆、そのお礼を言うたというて、ね。おかげ、おかげ、ご利益、ご利益なんて、その事なんか、もう、目当てにしちゃあならんと。信心が解れば解る程、とかく、神様に喜んで頂く様な信心とは、様に喜んで頂く様な信心とは、神様に喜んで頂く様な信心とはと、そこに焦点をおいて、一生懸命修行もしなさい。信心もしなさい。と言われる。それを秋永先生に、聞かせて頂いて、「ああ、さすがにひろたさんだなあ。」と、今朝も、感心したね。
 今日は、【  】なかばにして、「秋永さん、ちょっと私の方に寄って下さい。」言われる。それも、皆んなよその教会の幹部が、集まったところでですね。「何、いや、ちょっと、ちょっと寄って下さい。私の、自動車にい乗せていこう、私、今、自動車に乗ってきとるから。」というので、秋永さん所へ、まいりましてですね。いろいろ、話しを聞けば聞く程にですね。成程、こういう信心から、こういう大変なおかげが、生まれておるんだ。と言うことをです、ね、その、感じたと言うてから、帰ってきとりますが、まあ、それは、いつか、秋永先生が、お話することで、ございましょう。とにかく、神様が、喜んで下さる、信心とは、もう、ひろたさんの、場合ですね、どういう様な、ありかたになったら、初代が、喜んで下さるか、親先生が喜んで下さるか、ここだけだと、言われる、ね。私が、どげな風に、思うておる事を、初代が、喜びなさるか、私が、どげんしようる事を、初代の、親先生は、喜びなさるか、と言う事を思い続けて、この事に、明け暮れておると言うので、話されたそうです。神様が、座敷いっぱいに、御神前の間が、できておるそうです。真ん中に、大きく神様を、お祭りして、勿論、霊神様を、お祭りして、そして、その霊神様を、同じ間数を、とってですね、初代の親先生御夫妻の、お写真が、掛かっているね。しこに、ちょっとこの、お供え物が、別にあがって、配慮しておられる。いかに、信心が、行き届いた信心か。親先生、親先生とおっしゃるが、成程と言う様なですね、その、おかげを、頂いておられると言う事を、言うております。
 ですから、皆さんが、一生懸命、合楽通いをしておるが、果たして、果たして、いつまでも信ずる心が、できんのは、神様に喜んで頂く様な、信心をせんから、いつまでたっても、神様を信じられる。信心が生まれてこないのです。信ずる心が、生まれて来ないのです、ね。私、本当に、神様に、喜んで頂く信心の中にね、先祖を大事にすると言う様な事なんかを、こりゃあ、もう、間違いなしに、神様が、喜んで下さる事だ、ね。祖先を大事にしなきゃあいけません。
 先日、お参りをしいてみえましてから、伊万里の竹内先生達ですけれども、奥さんのお父さんの、たち日が今日なんです。別に式年祭を言う訳ではない。お立日。勿論、自分の霊前でも、まあ、ちょっと、お茶ぐらい沸かさせて頂いてお祭りをされる事に違いないですけれども、ちょうど、その日は、父親の立日でございますから、「どうぞ先生(月並祭にあわせて)晩の御祈念に合わせて、頂いてもいいから御霊に、挨拶をして下さい。」と言う事であった。で、今日は、私が下がらして頂いたら、まもなくみえましてから、お供え、様々とりそろえてから、お参りしてみえられました。それが、6時までに、久富先生が、言われるもんだから、「なら、あんた、今夜こていわんで、その前にさせて頂こう。」て、言いよりました。そんなら、そうしょうと、こたつの間で、あちらで、竹内先生見えてから、お茶頂きながら、肝心な事、あら、ほんに、今朝、沢山、お花を、頂いておった事でした。お花やさんから。その花がですね。まあ、言うならば、私のあんまり好きではない、いわば、御霊様にしか、お供えできないといった様な花なんです。杉な、杉な、それに菊の花を、あしらってある。こんなに大きく、まあある人から頂いたんですよ。「いゃ-変な花が、あつまってきたなぁ-。」と今朝は、私はそうた思うんです。けれども、竹内さんと、こたつの所で話しさせて頂いた時に、「ははぁ-。
 今日の御霊様へのお供えだなあ。」と私は思うたんですよ。もう、間違いのないのに、驚きますですね。今、あそこに、入れてありますのが、あちらの先生の奥さんは、お花の先生まで、なさるくらいですから、「竹内さん、あそこに花を頂いてあるし、それも、もう、御霊様のお供には、持ってこいの花を頂いとるから、あなた、入れて、帰って下さい。」と言うてから、あそこに入れてもらったんです。入れてもらいながら、その実は、6時迄に、伊万里に到着しなければならん、とこういう訳けなんですよ。[そんなら、まあ、あれが玉串がわり、どうぞ、あの花を、入れて、お帰り下さい。そしたら、今夜、私が、御霊さんに、ご挨拶させてもらっとくから。」と言うような事で、ございますけれども。いかにね。例えば、先祖を、大事にするといった様な事に、そう言うお取り次ぎが、あっておるところに、もう、神様がですね、こう言う働きを、見せておって下さる。と言う様な事が、です、ね。神様に、喜んで頂く信心とは、神様が、早速、こう言う反応と言うか、こう言うおかげを、みせて下さるのです。御霊様にしか、お供えできない様な花がです。
 今日、けさ来ておった。それを、しかも、娘の竹内の奥さんが、入れて、お供してかえった。玉串が、おありにならんで、何になりましょうか。そう言う所から、いよいよ、成程、神様に喜んで頂く様な信心とは。私は、今日は、御霊様の所へしぼって、お話しとりますけれども、御霊様を、大事にするという事、ね。同時に、今日、ひろたさんの事を、通しましてからです。こんこんと、後輩の信者さんに、説いておられる。ひろたさんの、神様に喜んで頂く信心せにゃあ、五十ばあで、もうけて楽しょうて、思うちゃあならん。もう五十迄は、神様に喜んで頂く信心を、しっかりしときなさい。あとは、あんたが、頼まんでも、願わんでん、ちゃんと、おかげを頂く様な意味の事を、言われておるのが、秋永先生が、聞いて帰ってですたい、成程、そうだなあと、思うたと、こう言うのです。お互いがですね。様々な、願いがありますけれども、願いを通して、その願いを通して、神様に、喜んで頂く、願いのしかたが、あるんです。病気の願いも、良かろう。息子の試験の事も、よかろう、ね。金銭の暮らしの事も、良かろう。どう言う、おかげでもいい。牛、馬の事にいたるまで、実意をもって、願うと言う事がです、神様が、喜んで下さることなんですよ。
 ですから、その願いを通して、どうぞ、健康にならして下さい、だけで、じゃあ、ここで、ほんなら、その健康がかえって、神様の喜ばされる様な事に使う事すら、ですから、どうぞ、健康のおかげを、頂かせて下さい。
 そして、その健康を、いよいよ、神様に、喜んで頂く様な、御用に使えるために、健康なおかげを、頂かせて下さい。と言う願いなら、病気の願いでもです、神様に、喜んで頂く願いの、筋がたつでしょう、ね。健康のおかげ、頂いたばかりに、もう、あん時、あの人は死んでもどった方が、よかった。ちゅう様な事すら、あるんです。健康な、おかげを頂いて、それが、親不孝をする。ほんなら、あの時、助けてもらわん方が、良かった、という、ね。そう言う、助かり方では、いけないのです。その助かりが、神様に、喜んで頂ける方に、方向づけとかにゃいかん。願う時から、すでに。神様に、例えば、親のみたまの事を、お届けさせて頂いとりゃあ、今朝、ちゃんと、みたま様にね、それこそ、生き生きとした、あのすばらしい菊の花と、あの杉は、何か、固まる様な大じえなんかに、使うような杉なんです。杉は杉でも。けれども、松を喜ぶ反対に、杉のお知らせを、嫌うと言うが、不吉な、といった様なふうに頂くでしょ。
 けど、これ、御霊様に、それこそねあされる時に、それは、生きてくるんですよ。杉の花が。もう、何と、神様の演出の素晴らしい事であろうか。その演出の中に、私共が、です。御霊様のお祭りを、させてもらう。そこに、いよいよ、成程、神様に喜んで頂く様な、信心させてもらえば、信ずる力が、おのずと出来る事が、解るのです。神様に、喜んで頂く信心をめざしての、信心にならなければならない。そこに、初めて、信ずる心が、頂ける様な働きですを、所謂、信心、信ずる心、それがいやが上にも、信じなければおらない様に、神様が、お働きくださるんですよね。当然ふがよかった。偶然といった様には、一回、二回は、偶然とか、ぶがよかった、と思うだろうけれども、それが続いてまいりますと、偶然とか、ぶがよかった、やら、思われない程に、はっきりと神様が、働きをして下さる。それは、神様が、喜んで下さる様な信心を、めざしての、信心に成るから、そう言う、おかげを下さるのです。
どうぞ。